2005年 01月 29日
ユベントスの背番号6はのろわれている。 その背番号をつけた選手はことごとく失敗してきた。アメトラーノ、ディマス、オリセー、オニール、アンリ(順不同)、フレージ、そしていまレグロッターリエが・・・ 私はそれを、度重なる故障のすえ96年にユベントスを追われるように去ったMF、パウロ・ソウザの呪いに違いないと思っていた。だが、それはまちがいだった! 背番号6、それはユベントスのカンピオーネの一人で今は亡き伝説の名リベロ、ガエタノ・シレアの番号だったのだ。 82年W杯優勝監督のエンツォ・ベアルゾットは、ユーベの背番号6を永久欠番にする署名運動を始めている。6番の呪い、それはショボい選手が自分の背番号をつけることに耐えられなかったシレアの呪いだったのである。 ・・・て言いたくなるくらい、誰もこの番号で大成せんな。署名運動はホントの話。 1953年5月23日Cernusco sul Naviglio生まれ。1989年9月3日没。享年36。 バレージ、パサレラ、ベッケンバウアーとならび称される名リベロ。 1974年にアタランタからユベントスに移籍し、その後1987年に引退するまでユベントスでプレイした。第一次トラパットーニ体制をささえた選手のひとりで、チームメイトにはベッテガ、タルデッリ、カブリーニ、ゾフ、ジェンティーレら、78年、82年W杯でイタリア代表の屋台骨だった錚々たるメンバーがいる。 アタランタではMFとしてキャリアを始めたが、73/74シーズンにリベロに転向。シーズン後、当時の会長、ボニペルティがスターDFサルバドーレの後継としてユベントスに移籍させた。彼はポジショニングと攻撃参加の両方のセンスにすぐれ、めったにミスを犯すことがなく、卓越したリーダーシップを発揮した。83年から86年まではキャプテンをつとめ、「ヘイゼルの悲劇」で有名な84/85シーズンのチャンピオンズ・カップ優勝の際には最初にビッグイヤーを掲げた。 ピッチの中でも外でも礼儀正しく物静かな紳士として知られ、チームメイトやファンには”ガイ”の愛称で親しまれた。休日にはテニスと料理を楽しみ、人ごみを避けてひっそりとした生活を送った。686試合におよぶ公式戦で退場になったことはなく、また、一度として出場停止処分を受けたこともなかった。 引退後はユベントスのスタッフに迎えられ、ディノ・ゾフ監督のもとで新しいキャリアをはじめたが、UEFAカップの対戦相手であるポーランドのGornik Zabrzeをスカウティングした帰途、ワルシャワ空港に向かう途中に雨のハイウェイで交通事故に巻き込まれ、乗っていた車が炎上。帰らぬ人となった。悲報はスポーツ番組『ドメニカ・スポルティーヴァ』の本番中にもたらされ、ゲストとしてスタジオにいたタルデッリは気分が悪くなったという。 ユベントスのファンは、今も南側ゴール裏席をクルヴァ・シレアと呼んでこの名選手をしのぶよすがとしている。 ユベントスでの成績: 552試合31ゴール。スクデット7回(1975、77、78、81、82、84、86)、コッパ・イタリア2回(1997、83)、チャンピオンズ・カップ1回(1985)、インターコンチネンタル・カップ1回(1985)、カップ・ウィナーズ・カップ1回(1984)、ヨーロッパ・スーパー・カップ1回(1984)、UEFAカップ1回(1974) イタリア代表での成績: 78キャップ2ゴール。ワールドカップ優勝1回(1982)
by mozzy
| 2005-01-29 07:41
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